昭和五十七年三月十三日 朝の御理解
x御理解第五十五節
賃をとってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んではくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。
昨夜は別にこう考える事もないのに眠れなかった。その事を神様に御礼申さして頂いておったらz”野に山にしろ一色というですかね、もう雪景色”を頂いたんです。白一色、本当に昨日の御理解を頂きましても思うですけれども、御礼を申し上げることばかりだと。という中にこれだけは御礼が・・・夕べはどうしても眠れじゃったじゃろうか。どうして眠れじゃろうか、という風な思いが私の心の中に、サラサラないのです。眠れなかった事がやっぱりおかげとして、こう御礼を申させて頂いておったら、ま、野山に雪がもういっぱい、それこそ白一色の情景を頂いたんですけれども、大体、お互い信心をさして頂いて目指すところはやっぱり、ここでなければならんのじゃないかと。
勿論その信心と云うのが、まあいよいよ豊かに、大きく育っていかなければなりませんから、ただ有り難いと言うても、その有り難い、云うならば度合いというか、自分に都合の良かった事だけが、有り難いというのじゃなくて、ま普通から云うならば、どうして夕べは眠れんじゃったやろうか、と云うような心が起こる、どうしてという事がない。
眠れなかったという事にもやはり、御礼を申し上げる、今日の御理解にありますように、一年一年有り難うなってくるとね、確かに若い時には、若さに任せ、力に任せて、自分の思うようなことも、でけるのだけれども、年を取ると争云うわけにはいかん。
例えばここでは賃を取ってする仕事、といったような事は、なおさら年を取ってよぼよぼしてくると、誰でも頼み手があるはずがないように、私は信心させて頂いて、段々年を取るに従って寂しうなりね、嘆かわしい状態になっていく人が多いのではなかろうかと思う。
それに引き替え信心をさして頂いておれば、一年一年有り難くなってくる。しかもこれが位と云う物であろうかと思うように、自分の心に有り難いものを感ずる。 一年一年有り難うなっていき、自分でこれが位と云うものであろうかと思われるような実感の頂けれる、感じられる信心。
ま、それをま、云うと自分の御礼心というものがね、それこそ一切が親愛と云われるのに、確かに話を聞けばそうなのですけれども、なら、今朝から私のように眠れなかった、というようなときは、まあどうして眠れやったじゃろうかと。眠れんから今日はきついと云うようなものが残るでしょうけれども、私の場合には、まあのう、それがサラサラない。
いわゆる眠れなかったことにこの、心から御礼が申し上げられるのですから、それが身体にさわるはずもないね。とにかく御礼が心から云えれるという事はそういうおかげが伴うもんだと思いますね。
昨日は美登里会でございましたから、皆さんのお話を聞かせてもらったんですけれども、六名の方が発表されました。もう時間がまいりましたから、あと半分の方達はまあ発表が出来ませんでしたけれども、その六名の方達のもう一人一人の話がですね、もう見事に、云うならば合楽理念を実験しておられ、そして確かに、その実証を表しておられ、自分も感じておられる。
もう美登里会と言えばもう年を取られ、むかーしの朝参りの婦人の方達のが、始められた信心共励会ですから、もうお婆さん達がほとんどです。年を取った方ばっかりと言うてもよいでしょうね。
その話を聞かせてもろうて、ま思わせて頂き、又今日の御理解を頂いて、思うのですけれども、この人達はもう一人一人が皆、自分で位を感じていけれるような、又、年を取れば取るほど、有り難くなっていかれるおばあちゃん達だなあというふうに感じました。もう確かな実験、そして確かな実証、しかも日々がもうそりゃ本当にね、一人一人の発表がそうでした。
最近私はあの特に、○○会と言う会合に、昼はでますから、先だって、あの梅の実会だったですけれども、本当にあのういわば、合楽理念の確かさ、と言うものをいよいよ感ぜずにはおられません。
やっぱああした共励会にもでてくる方達は、もうそれこそお話をいっぱいもっておる人達ばかり、もうとにかく合楽理念の実験実証しておる人達ばかりですから、もう一人一人の話がそりゃ、本当に素晴らしいのです。
ああ云う内容が段々出来ていく限り、一年一年有り難くなっていくにちがいない。又自分で位を感ずるような内容が心の中に頂けてくるにちがいないけれども、果たして多くの御道の信奉者が、今日のこの御教えにあるように、又昨日私は美登里会の人達に感じたような、いわゆる信心御を頂いておる者の実感と言う者が、あのように発表でも出来る方達がどのくらいおるだろうか。
お取次を頂いて、御願いをして、こげなおかげを頂いたと云うおかげ話ならたくさんあろうけれども、もう生活の中に云うならば、合楽理念がとけ込んでおる。そこから生まれてくる確かなじっしょう。いよいよ有り難い、いよいよ有り難いがつのっていくばかりだろうと思わせてもらいました。
もう間違いなくいうならば、合楽理念の確かさと言うものをです。皆さんが日々生活に身につけていく稽古をなさらないとね、年を取るに従って淋し宇なります。不平不足が多くなってまいります。
そして、本当に口でこそ一言で申しますと、一切神愛というふうに云いますから、けれども本当に一切が親愛として受けとめる心と云うのは、日々いわゆる合楽理念の実験実証さして頂いておる、その心でなからなければ受けとめられないと思うです。
その受けとめ方がもう次のおかげになっているんです。今朝から私は昨夜眠れなかったと、だから今日は体がダラーッとしてきつかと。御祈念中に眠気がきたと言うような事ではなくて、やっぱりいつもに変わらぬま、それこそ有り難い御祈念が出来たというおかげ。
問題は眠れなかった事に対しても御礼が云えれる、以前は私はそういう時には、ま、結構な修行をさして頂いてと、云ったような眠らん修行をさして頂いたと云うような感じで御礼を申し上げたもんですでども、今日なんかの場合、そんな事ひとっつも修行と思っていない。もう眠れなかった事その事がそのものズバリ、有り難いのです。
そしたら神様からね、もう白一色、もう何の汚点もない。山も野ももう雪景色での状態。もう一切がまあ言葉で言うならば、神愛ともうそこに悟りきっておる、分かり切っておるから、御礼が云えるのだというふうに思うのです。
勿論そういう願いと言うか、おかげというものがです、いよいよそれが高度な有り難いものに、なっていくことのために、自分の祈りのま、洗練とでももうしましょうかね、祈りの内容と云うことになりましょうか。
ただ、まあ皆さんの場合、そうした合楽理念の実験実証の様子を聞かせてもらって、大体思いますのは、大体自分を中心とか、自分一家、それ自分中心というのは、ま我情我欲でのと言う意味じゃありません。云うならば祈りが小さい、信心が小さい、これがもっともっとその同じ有り難いでも、現れてくる実証でも、もっと素晴らしい実証を現していくことが出来ると思います。
こりゃやっぱり、育っていかなきゃなりませんね、そりゃまあだ、人んことだんじゃなか、自分の方の一家の事でとその自分方一家のことであっても、その一家の中に合楽理念をもってと言う生き方をすれば、実証は生まれてくるんですけれども、そこに、やはりお育てを頂く、云うならば大きな祈りね、その大きな祈りという、勿論中身がなかったら、つまりませんけれども、中身のある充実したお育てを頂いて、信心は大きな信心が良いと仰せられるから、ただ大きな事だけを願えば大きな信心と云うことではない。
そこに云うなら眼のつまった大きな信心に、お互いお育てを頂くに従って、云うならば位の方も確かな位が頂けてくる、感じるようになる。ね、本当に口だけではない。一切が神愛がどういう場合であっても、御礼の申し上げれる対象になるような願いを持ちたい。
とにかく信心をすれば一年一年有り難うなってくると仰せられる、その一年一年有り難うなってくる信心が色々ありましょうけれども、ありましょうけれども、合楽理念に基づく生き方を身に付けていけば、これはいよいよ確かな実証をふんまえての一年一年有り難うなっていくという事になると思うですね。
お互いやっぱり信心をさせて、ま、合楽の方達はあんまり申しませんけれどもね、真の信心が頂きたい、頂きたいと申しますよね、ところがなら、真の信心とはこれだと言うふうに的確には、教えられなかったと言うてなら、それこそ腕こまねいて、真の信心真の信心というておったところでね、頂けるもんじゃないです。
それこそあの遮尼発とお釈迦様の話じゃないですけれども、ね、来る日も来る日も腕こまねいて考え抜いておる。はあ云うならば真の信心とは真の信心とはと思うておる訳でしょうね。
そこをご覧になったお釈迦様がね、ある日自分の手元に呼ばれた。そして遮尼発よ、このハンカチを解いてみよと自分の懐中しとられたハンカチのようなものを出して、それをこう結ばれた、そして遮尼発の前に出された。遮尼発は云われるままに、それをほどいた。又結ばれた。又ほどいた。それを三回四回と繰り返していくうちに、ま当時智第一と云われた遮尼発の事ですから、ま翻然として悟ったと言うのです。
ただ腕込まぬいて真の信心真の信心、真の事が分かりたい、というておって真のことが分かるはずはない。やはりそのお釈迦様であるならば、お釈迦様の教えを本気で行じて見なければいけないと云うわけですけれども、様々に行じて云うなら真の信心を私共も過去に於いて、求めてまいりましたけれどもね、今合楽理念ほど確かな真の信心はない。
しかも真の信心に伴う所のいわゆる心の云うならそだち、又はそれに表れて来るおかげの実証、こんな確かなものはない。
だから合楽に縁があっていわゆる真の信心を求められるならば、もう日々の御教えそのものが真なのだからね、その日々の教えを行じていく以外にない。その行じていく事その事がね、いわゆる段々有り難くなってくるのである。 そこに位を感ずるようなおかげになってくるのである。
昨日六名の方達の発表を聞かせて、皆朝参り組の方ばっかりなんです。ですからもう一人一人の云うならば、日々の御理解を基にして、実験実証していっておられる方達ばかり、ですからもう確かな、こんな確かなこの信心があるだろうかと思うくらいに、確かな実績を残しながら、日々を云うなら年を拾うていかれる。
こんなら一年一年有り難うならんはずはない。いわゆる一切神愛の実感も、いよいよもって出来てくる事であろうというふうに思いました。
昨日、あっ、今日は十三日会ですから、ね、神様の願いに応える、神様の願いが成就する日といして、大切にするわけですけれども、昨日なら、六名の方達の
発表を聞いておると、もう日々が十三日会ですね。又そうでなからにゃいかんです。
いわゆるもうとにかく、神願成就が自分の家庭の上に、身の上に自分の周辺に起こっておると言うような、この実証をま、話にされた訳ですけれどもね、もう
四六時中が十三日会の精神、なら十三日会の精神とは、いわば私はそれを具体的に云うたら、日々の御理解をいよいよ実験実証していく以外にないというふうに思います。 どうぞ